伝統って”守る”ものなのかな?とちょっと考えてみた
こんにちは、花枝です。
今日は、「伝統」について考えてみました。
よくわからない「伝統」の正体
伝統
という言葉をやたら活用したり、ふとした時に違和感を感じたりもする。
伝統ってなんなんだ?そんなことを考えるようになりました。
例えば私が海外の方に対して三味線の演奏をする時……英語で説明する時は「traditional」
という大変便利な言葉を乱用して、まあなんとかは説明できるんですけども、本当の根っこのところは分からない。
上手く伝えられる自信はやっぱりないのです。
伝統って尊いのか?守らなくちゃいけないのか?
それは日本語でも同じことで、英語よりかは随分できる(つもり)の日本語でも、伝統っていうものはなんだかベールに包まれたような実態のないもので、ふわりふわりとしている。
なのに、「伝統」という言葉の持つ重みはやたらめったら重い。
「伝統」とつけば、それだけでもう立派で、尊くて、守らなくてはいけないもののように感じてしまうのです。
私が生業としている三味線は、今や若い人は琴との区別も危ういぐらいのマイナーな楽器であり、演奏技術を継承する人は少ない。
と、少なくとも私はそう感じております。
ええ、深く携わっているから言わせてもらいますけど、三味線はマイナーでサブカルです。王道とは思えないしもうそんな時代じゃないと思います。
「三味線が仕事になる」という時代感覚はもうとうの昔に消え去っています。
実際のところ三味線一つで食べていけるほど、日本に三味線の価値を見出せる場所は少なくなっているように感じるのです。
伝統としてはもう「すでに死んでいる」んだな
そうなってくると、伝統芸能としての三味線は、だんだんと「保護」を求めるようになります。
いわゆる助成金というもので、存在そのものを守られるようになります。
ですが、それってもう「伝統」として死んでいるんじゃないのか?と思うんです。
例えるなら、博物館に展示されたマンモスの標本のようなもの。
「かつてこのようなものがこの地球に存在していました。」というような。
「伝統だから守らなきゃ。」とか、「伝統だから守られて当然だ。」とか、そういった認識も少し間違っているように感じます。
言葉を選ばずにいうなら…私たちは絶滅寸前のトキではないのです。
それぐらいは自分で考えてみますよ、あなたにそう言われなくてもね!って。少なくとも私はそう思っています。
伝統って、本当に何なんでしょうか。
伝統=守ら”ねば”いけないもの
……そんな図式は、もう捨ててしまってもいいんじゃないかと思うのです。
生き残ることも考えていきたい
…といった話を友人にしたとき、その友人はダーウィンの言葉を完璧に引用し、このようなことを言ってくれました。
「強い者、頭の良い者が生き残るのではなくて、変化するものが生き残るんだろうね。
三味線も昔は価値があって”強かった”のかもしれないよ?
でも、それだけじゃ生き残れないね。」
守らない伝統の守り方
守らずとも継続可能な伝統
うーん、うまい言葉が見つからない…。矛盾しているような言葉ですが、これを最近は目下考えております。
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