受け入れられるのをただ待つのでは何も変わらんということです【三味線寄稿記事14】
Web集客コンサルティングのninoyaさんの片隅で、1コーナー設けて頂いております。
三味線のことについて、思うことや実体験を通しての記事を寄稿しております。
今回は海外での三味線の経験と、それを経験した上で感じた三味線との向き合い方です。
ここで書いた経験はバイアスがかかっているので、一個人の経験談として読んでいただければ幸いです。
- アメリカで”たまたま”三味線を習いたい人がいたから、教える機会に恵まれたよ
- アメリカのディズニーでで”たまたま”タレントコンペがあったから、出演したらファイナリストまで残ったよ
- そのコンペで”たまたま”審査員の目に止まったから、ディズニー従業員のイベントに呼んでもらえたよ。
全部”たまたま”だったんですけど、そこには前提として
「自分はこういった三味線が演奏できますけど、それはあなたにとってどう聴こえるでしょうか?見えるでしょうか?感じるでしょうか?」
と、自分のできることを提示した上で…ってことが重要なんだと思います。
日本では「選ばれること」が美徳とされている面があります。
それはそれで確かに素晴らしい謙虚な文化だと思うのですが、選ばれるレースにも参加せず、ただただ選んでもらうのを待つだけだとしたら、それは勿体ないことだと思います。
私は20代の殆どを「自分が長年費やした三味線を否定されたらどうしよう?!」といった助平心のような気持ちと、誠にくだらないことですがずっと戦ってました。
「選ばれなくてもいいじゃない!」「駄目なら駄目でいいじゃない!」
って、自分が自分を受け止めなきゃ、前へ打って出ることは出来ないのではないかなと思います。
そういう考えになれたのも含め、アメリカでの生活やそこで出会った人々は何物にも代え難く貴重な財産となっています。